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徳島藩お抱えの力士大集合!写楽の相撲絵「大童山土俵入」

3月7日は、写楽の正体とされる徳島藩お抱え能役者・斎藤十郎兵衛の命日であった。

この日、写楽の会では「『写楽忌』記念歴史文学散歩」と題し、写楽ゆかりの地を巡るイベントを実施した。
徳島城跡から徳島市城南町の焼香庵跡墓地まで、総勢30人で周辺の歴史文学遺跡を見て歩いた。

徳島出身で徳島藩お抱えの江戸相撲力士、勢見山兵右衛門の墓所が焼香庵跡墓地にあることは前回述べ、写楽の相撲絵「大童山土俵入」には、勢見山をはじめ、徳島藩お抱えの力士が描かれている。


勢見山と同じ東方にいる和田ヶ原もそうだ。
陣幕はこの絵が描かれた翌年の1795(寛政7)年に徳島藩お抱えとなる。大童山を除く10人の関取の中に、3人もの阿波ゆかりの人物が描かれているのである。

「大童山土俵入」が描かれたのは1794年11月17日であると研究家によって特定されている。
この絵に登場する力士全員がそろうのは、この日しかないという。
なぜこの日が選ばれたのかは不明だが、作者と同じ徳島藩お抱えの関取を描こうとして、あえて選んだ可能性も否定できないのではないだろうか。

写楽が相撲絵を描き始めるのは第3期からである。
1794年5月、衝撃的にデビューした写楽だったが、倦まれて次第に評判が芳しくなくなっていったと思われる。
危機感を抱いた版元の蔦屋が相撲絵に取り組ませたのかも知れない。

江戸相撲は寛政期に黄金時代を迎え、人気が高まっていた。
浮世絵師たちは競って相撲取りを題材にした。
特に勝川春英をはじめ、勝川派の浮世絵師による相撲絵が多数刊行されている。

写楽の相撲絵は「大童山土俵入」と大童山だけを描いた作品3点であるとされているが、商品化されなかった版下絵があった。
明治から大正にかけて浮世絵商でコレクターだった小林文七の所蔵品のようだ。
10枚あったことが記録されており、うち9枚が関東大震災で焼けたものの、写真が残っていたという。
この写真は、集英社版浮世絵大系7『写楽』で見ることができる。

版下絵は関取を2人ずつ描いたもので、ここにも勢見山が登場している。
並んで立つのは鏡岩浜之助である。
勢見山の墓の台石に刻まれた人物であり、享和年間(1801~1803)には阿波藩お抱えとなっている。
版下絵には、「大童山土俵入」の関取を除いて9人が新たに描かれているので、写楽の描いた関取は20人に上る。
相撲絵に転換するはずではなかったか。

この版下絵に真筆かどうか疑わしいといわれているようだが、錦絵として商品化されなかったことが逆に本物らしく思える。
1795年1月に横綱谷風は風邪をひいて急逝するのである。
谷風人気をあてにしていたはずの蔦屋の恨み節が聞こえそうである。

(「写楽再考」3 徳島新聞2017年3月28日、丁山俊彦)