四方山話|yomoyama

“写楽”発見  -斎藤十郎兵衛の過去帳てんまつ記〈上〉

“写楽”発見 -斎藤十郎兵衛の過去帳てんまつ記

ナゾの浮世絵師・東洲斎写楽とみられていた阿波藩お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛の過去帳が埼玉県越谷市の法光寺(樋口円准住職)で見つかり、斎藤十郎兵衛が写楽だった可能性が強まっている。発見したのは、徳島市の歴史愛好家・柳生幸治さんと「写楽の会」(花岡徹代表世話人)の会員たち。過去帳発見のてんまつを3回に分けて、「写楽の会」世話人・丁山俊彦さん=名西郡石井町浦庄=に書いてもらった。

「すごいことになった」
実在裏づける第一級の史料

5月24日、「写楽の会」のメンバーは徳島市内の小料理店に集まっていた。「写楽の会」の総会が終わって懇親会に移った直後のことだった。全員、箸(はし)を休めて、受話器をもつ花岡徹(写楽の会代表世話人)に注目した。

「えっ、地蔵橋まで入っていますか。八丁堀地蔵橋となっていますか。阿州殿、阿州殿御内なんですね」

命日も法名もわかった。なんという僥倖(ぎょうこう)だろう。こんなに簡単に見つかるとは。電話の相手は法光寺の樋口住職。近々寺を訪れることを約して、花岡は電話を切った。

「やった、見つかったわ、斎藤十郎兵衛の過去帳が見つかったでよ」

すごいことになった。これが本当なら、これまでの研究結果を確実に裏付ける第一級の史料である。

「写楽 天明寛政年中の人
俗称斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀に住す
阿波侯の能役者也 号東洲斎」

江戸時代の考証家・斎藤月岑(げっしん)の手になる「増補浮世絵類考」にはこう記されている。過去帳の発見で、その十郎兵衛の実在が完全に裏づけられたわけだ。

写楽論争の歴史は長い。ドイツの美術研究家ユリウス・クルトは「増補浮世絵類考」などをもとに写楽研究を進め、明治43年「SHARAKU」なる本を出版した。ここで写楽はベラスケス、レンブラントと並ぶ三大肖像画家と位置づけられた。

クルトによって突如、世界のヒノキ舞台に躍り出た写楽。そして、これが写楽探しの端緒となった。写楽版画の値段は次第に高騰することになる。外国へ売り込む、利にさとい人々もいた。

これだけ人気が高まってくると、作者の正体を知りたくなるのが人情というものだ。大正末期に本県出身の人類学者・鳥居龍蔵氏は、阿波藩の春藤流能役者が写楽であるとの説を発表する。昭和6年には、鳥居氏の流れをくむ徳島市の森敬介氏が能番組を発見し、斎藤十郎兵衛の名の能役者を探し出した。しかしその後、日本は戦時色が強まり、写楽どころではなくなる。

写楽探しが再燃するのは、大阪在住で本県出身の藍研究家・後藤捷一氏からである。

昭和31年、後藤氏は蜂須賀家の古文書「御両国無足以下分限帳」から斎藤十郎兵衛、斎藤与右衛門の名を見いだす。このころから写楽研究は盛んになっていくが、それらは斎藤十郎兵衛説を追究したものではなかった。後藤氏の発見が決定打とならなかったばかりに、幾多の写楽別人説が生まれることになる。そして、写楽探しは迷宮に入っていく。円山応挙だ、葛飾北斎だ、いや歌川豊国だ、蔦屋重三郎だ、司馬江漢だ、谷素外だと、まさに百花撩乱(りょうらん)。江戸寛政期のオールスター総出演といった様相を呈した。

そんな中、昭和52年に九州大学教授の中野三敏氏が、古文書「諸家人名江戸方角分」に、八丁堀地蔵橋住の写楽斎という浮世絵師の名があったと発表する。

また、写楽=矢野栄教説を実証すべく研究を続けていた板野郡北島町の浮世絵研究家・瀬尾長氏は、昭和56年、法政大学能楽研究所と接触する過程で、斎藤十郎兵衛と斎藤与右衛門が親子関係にあり、家督を継いだものが与右衛門を名乗ることを知る。同年、浮世絵研究家の内田千鶴子さんは、その史料を直接確認し、斎藤十郎兵衛の生年などを割り出した。

こうした研究が刺激となって、作家の高橋克彦氏や版画家の池田満寿夫氏、哲学者の梅原猛氏ら続々と“にわか写楽研究家”が生まれ、諸説を発表する。しかし、最近では十郎兵衛説を追究する内田千鶴子さんらの研究によって、斎藤十郎兵衛説が次第に定説となってきた。


▲斎藤十郎兵衛の名が見つかった法光寺の過去帳の表紙

丁山俊彦 「写楽の会」世話人 1997年(平成9年)6月23日徳島新聞掲載