四方山話|yomoyama

”写楽”発見 -斎藤十郎兵衛の過去帳てんまつ記〈下〉

ついに姿を現した
埼玉・法光寺で原本を確認

過去帳に斎藤十郎兵衛の名があったと樋口円准住職から聞き、確認に行ったのは6月1日。「写楽の会」の花岡徹、一山典と私、それに発見のきっかけを提供した柳生幸治氏の4人だった。目指すは、埼玉県越谷市、浄土真宗本願寺派の法光寺である。興奮しないわけがなかった。

本堂わきの20畳ほどの和室で待っていると、樋口住職が現れた。型どおりのあいさつが行われたが、どちらも心ここにあらずといった様子である。ご住職もそれを察して、つっと立っていかれたかと思うと、すぐに菓子箱を抱えて戻ってこられた。この中に…、とかたずをのんで見守る。

箱が開けられ、茶色っぽい過去帳が現れた。古びてはいるが保存状態はよさそうである。付箋(ふせん)が何カ所にもわたってなされている。ご住職が、「斎藤」の名の出てくるところを調べて一つ一つはさんでいったとのこと。

「ご承知のように過去帳はだれにもかれにもお見せするものではございません。私が調べたところを一枚一枚開いてお見せいたしますので、ご了承下さい」

もちろん、というようにこちらもうなずく。

「これはおそらく大正か昭和の初めごろ、書き写したものと思われます。原本は別にありますので、それもあとでお見せしたいと思います」

ご住職が一枚一枚めくってくれた。出てくる出てくる斎藤が。斎藤与右衛門先妻、斎藤十郎兵衛姉、斎藤与右衛門娘、孫…。八丁堀松平阿波守様内居住と記載された与右衛門もいる。

「間違いない」。写楽と目される斎藤十郎兵衛一族の過去帳だ。

続けてページをめくる。そして、ついに“写楽”が姿を現した。

「文政三庚辰年 大乗院釈覚雲居士 三月七日 八丁堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十郎兵衛事」

こんなふうに書かれていた。

これで完全に裏づけられた。斎藤月岑が「増補浮世絵類考」に「俗称斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀」と書いていたこと。中野三敏九州大学教授が、「諸家人名江戸方角分」で八丁堀地蔵橋住の「写楽斎」を見つけ、近吾堂版「江戸切絵図」八丁堀明細図の地蔵橋に斎藤与右衛門の名が見られると発表したこと。これらすべてが正しかったことが証明されるのである。まさに“写楽”は完全といっていいくらいに姿を現したのだ。

原本も拝見させてもらった。起草が文政3年で、こちらは見るからに古そうな和紙だ。江戸時代のものに違いないと素人目にも思われる。十郎兵衛が十良兵衛となっているが、行年五十八歳、千住ニテ火葬と書かれていた。写楽研究家の内田千鶴子さんの論証によると写楽の作画期は33歳となっているが、それとほぼ一致することもわかった。

これはもう写楽に間違いない。だれがなんと言おうと、斎藤十郎兵衛が写楽だ。声を大にして言いたい気持ちだった。

寺の隅には、斎藤家代々のお骨が埋まっているという。ご住職が案内してくれる。一坪くらいの区画である。湿度を含んだように黒ずんだ土が見える。墓石はない。この下に“写楽”が眠っているのだ。その人を追いかけてはるばる徳島からやってきた4人の男たちが、土の下の“写楽”に向かって合掌した。

阿波侯お抱えの能役者であったことは確かだが、徳島出身だったかどうかは分かっていない。でもそんなことはどうでもいい。鳥居龍蔵に始まり、藍研究家の後藤捷一、“写楽につかれた男”と言われた瀬尾長ら。これら県人と、全国の多くの先達の素晴らしい研究があればこそ、私たちもここにたどり着くことが出来たのである。

写楽と目される男、斎藤十郎兵衛はこんなに簡単に姿を現したが、十郎兵衛が絵を描いていたことはまだ実証できないでいる。その証拠を提出しないかぎり、写楽別人説を展開する人たちは納得しないだろう。そういう人たちのために、中野三敏九州大教授が書かれた次の言葉を贈っておこう。

「江戸の地誌や芸能、音曲に極めて詳しかった月岑によって明示された八丁堀住、阿波侯能楽師、斎藤十郎兵衛説がそうあっさり否定されたのでは、今後いったい何を頼りに江戸研究を続けていけばよいのだろうか」(『内なる江戸-近世再考』弓立社刊より)。


▲ここに“写楽”が眠る可能性が出てきた=埼玉県越谷市の同寺

1997年(平成9年)6月25日徳島新聞掲載